大妻女子大学英語教育研究所 The Institute for Research in English Education

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研究所だより

25号(2023年春号)母語習得の臨界期

服部孝彦


 「研究所だより」24号ではこれまでの第二言語習得における臨界期研究を概観しました。25号では、母語習得と臨界期仮説についての考察をします。

 人間が学習する行動領域では、成長と共に能力が増していくものが多くあります。しかし領域によっては能力が成長と共に増大するのではなく、幼少期に頂点に達し、その時期を過ぎると学習能力が下降してしまうものもあります。臨界期仮説によると、言語を習得するために生物的に備わっている能力は、生後からある一定の期間のみに利用できるとされています。本号ではLenneberg (1967) の臨界期仮説を考察すると共に、言語経験から隔離されたGenie と Chelsea の事例を紹介します。さらにNewport (1990) の手話言語を使用した臨界期仮説研究を考察します。

 母語の臨界期はLenneberg (1967) が言語機能の一側化と失語症の関連に基づき提案したものです。Lenneberg は、後天性の小児性失語症の言語能力回復具合から臨界期の存在を証明しました。小児性失語症は2歳頃までの発症では、一度は完全に言語を失うものの、その後は順調に回復していきます。2歳より少し年齢が上がると、言語は完全には失われず、言語が少し残った状態から問題なく言語能力は回復します。発症年齢が上がるにつれて、損傷を受けないで残る言語能力は大きくなるものの、失語症からの回復は鈍くなります。Lenneberg は、若年層の失語症患者は、最終的に言語は完全に回復するが、失語症になった年齢が12歳から13歳を超えると十分な回復ができなくなるという症例結果から母語習得の臨界期を12歳~13歳としました。この研究によって、正常な母語習得は思春期が始まる頃までに起きるという行動的証拠が示されました。

 母語習得の臨界期については、Lenneberg以降、様々な研究が行われました。ほとんどの研究結果は、母語習得は人間に生物学的に備わっている能力で、生後からある一定の期間に利用できるとしています。この期間を過ぎても言語習得は不可能ではありませんが、ひどく阻害されてしまう結果となるとの主張です。

 一般的に健康な子供を対象に母語習得の臨界期を調査することは不可能です。それは、乳幼児は言語に接して育つからです。乳幼児期に言語に接することを奪われた、きわめて珍しい例がアメリカ人のGenieとChelseaです。

 Genie は精神障害のある父親から虐待を受け、地下室に軟禁状態で育ちました。父親は妻と息子が Genie に話しかけることを禁じ、Genie は言語と触れることが全くない状態で育ちました。保護された13歳まで、言語や社会とのつながりから完全に遮断され、言葉はひとことも発しませんでした。Curris (1977) によると、その後 Genie は社会性と認知の点で大きな進歩を遂げたものの、言語に関しては理解と産出に大きなギャップがあり、文法にも一貫性はありませんでした。Genie の言語発達は、最終的には同年齢の母語話者と同じレベルまでは達しませんでした。

 Chelseaは正常な人間が大人になってはじめて言語を習った例です。Chelseaは聴覚障害児でしたが、医師が精神遅延や感情障害と診断したため両親は聴覚に障害があることに気づかずに、31歳にまでなってしまいました。すなわちChelseaは、31歳まで言語を一切耳にすることなく育ったことになります。その後神経学者が補聴器を与え、聴力は正常に近いところまで回復し、さらにリハビリを施した結果、10歳児の知能水準にまで達し、自立した社会生活を営むにまでになったものの、統語ルールだけは最後まで身につきませんでした(Pinker (1995))。これは、31歳という臨界期をはるかに過ぎてしまってからの言語学習は困難であるという事例です。
 
 Genieの事例もChelseaの事例も、いずれも本人にとってはとても不幸な出来事ではありましたが、言語習得に臨界期がある可能性を示唆しているといえます。

 臨界期仮説を検証するのが難しいのは、GenieやChelseaのような極めて特殊な例を除けば、子どもが成長する過程で思春期まで言語に触れないということはありえないからです。そこで手話に着目した研究者が現れました。手話は音声以外の全ての言語構成要素を満たしている自然言語です。Woodward (1973) は6歳から始めたアメリカ手話 (American Sign Language, ASL) 学習者は動詞の形態素習得が十分にできなかったとする研究報告をしました。このことをさらに探るためNewport (1990) は、被験者がASLに接触を始めた年齢によって (1) 生まれた時から、(2) 4歳~6歳から、(3) 12歳以降の3つに分けました。被験者は、聴覚以外は正常な人たちです。その結果、形態素については早くASL学習を開始した者の方が、より正確な使用ができることが分かり、言語能力と学習開始年齢には相関関係があるとしました。

 「研究所だより」25号では、Lenneberg、Curris、Pinker、Newportによる母語習得と臨界期仮説の先行研究を概観しました。26号では、第二言語習得に関する臨界期仮説の先行研究を概観し、臨界期仮説の研究動向を掌握します。


参考文献

Curtiss, S. (1977). Genie: A Psychological Study of a Modern-day “Wild Child”. New York: Academic Press.
Lenneberg, E. H. (1967). The Biological Foundations of Language. New York: John Wiley and Sons.
Newport, E. L. (1990). Maturational Constraints on Language Learning. Cognitive Science, 14(1), 11-28.
Pinker, S. (1995). The Language Instinct. New York: Harper Perennial.
Woodward, J. (1973). Inter-rule Implication in American Sign Language. Sign Language Studies, 3, 47-56.

著者紹介

服部孝彦(はっとり・たかひこ)

本研究所教授、大学院人間文化研究科言語文化学専攻教授。

初等・中等・高等教育を日米両国で受けた元帰国子女。言語学博士(Ph.D.)。大妻女子大学助教授、米国ケンタッキー州立ムレー大学(MSU)大学院客員教授を経て現職。国連英検統括監修官、JSAF-IELTS アカデミック・スーパーバイザー、文部科学省WWL企画評価会議メンバーとして、我が国のグローバル化推進の中心として活躍している。元NHK英語教育番組講師。著書に文科省検定中学および高校英語教科書ほか、著書は196冊。日本に本拠地を置く現在でも日米間を頻繁に往復し、米国の大学での講義・講演、国際学会での研究発表を精力的にこなす。